医療'981998.4月号 メヂカルフレンド

高齢者医療のコンセンサスづくりが急務

公的介護保険下で高齢者への医療は堅持されるか
はじめに
「72歳の女性。意識は清明ですが、歩行不能です。骨折の疑いがあるので、搬送許可お願いいたします」。
  午前中の整形外科外来診療がそろそろ終わりかけた12時過ぎ、救急隊から連絡が入った。
  とっさに大腿骨頸部骨折を疑い、至急空床を確認後、患者の到着を待った。
  担架で運ばれてきた患者は、全身から尿臭を漂わせながら、「腰が痛くて歩けません」と、か細い声で訴えた。診察を始めると、下着は汚れきっており、何週間も着替えはなされていないようであった。付き添ってきた夫から状況を聞き出そうとしたが、どうも要領を得ない。一週間ぐらい前から風邪気味で、食事も取れていなかったと言うが、歩行できないことを説明するだけの客観的な理学的所見に乏しい。さらに車椅子には自分で移乗可能で、大腿骨頸部骨折の事実はなかった。
  緊急検査で低蛋白血漿を認め、電解質のバランスが崩れ、脱水を伴う低栄養状態であることは明らかであった。しかし、その他に入院治療を必要とするような異常な身体所見は発見できない。その事実を伝え、治療として補液が必要であることを説明したところ、この際だから、入院して全身くまなく精密検査をしてくれと懇願された。
  近くに住む息子の話によると、数か月前から言動がおかしくなり、夫も世話に手をやいていたようだ。生活は昼夜が逆転することもあり、食事を拒否したり、失禁もしばしばみられた。しかし、常に異常行動があるわけでもないため、放置されていた。ところが、ある日玄関で横たわったままであったので、救急車を呼んだというわけである。
  これは、ある救急病院でのつい最近の出来事であるが、この例はわが国の医療が抱える数多くの矛盾や問題を内包している。
  この症例は数日間の補液で脱水は改善され医療としての責任はこの時点で終了することとなる。しかし、生活そのものを改善させない限り、患者は再び救急病院へ舞い戻ってくるだろう。いつでも救急車さえ呼べば、簡単に何の手続きもなく医療サービスが受けられるからである。
高齢者医療を考える
  冒頭の例でおわかりのことと思うが、彼らに必要なことは、医療ではなく、食事をしたり、入浴するなど、当たり前の生活への援助である。すなわち高度な医療的知識が求められているのではなく、せめて常識的ないたわりの気持ちさえあれば、脱水を起こすこともなく、低栄養状態に陥ることもないはずである。愛情に裏打ちされた家族介護に頼らなくとも、この介護力が社会的に担保されていれば、こういった形での医療的介入は不必要となるはずだ。
  そもそも加齢とともに生じてくるいわゆる退行性変性に基づく不都合に対して、薬物などでの治療が、どれだけの臨床的効果を期待できるのか科学的な検証がなされていない。にもかかわらず、あたかも確立されたかのごとく、保険診療として認められている数多くの薬物療法がある。たとえば、閉経期以降の骨粗鬆症の薬物療法などはその代表であろう。それもわざわざ、自治体の保健センターなどに骨塩量測定装置まで設置して医療保険で薬物療法を行っている国は日本だけである。これは生理的な加齢による変化と疾病(病的変化)を明確に区別して捉える科学的スケールが欠如しているからで、あいまいな概念を整理しないまま、高鈴者医療を語っている医学者らに大きな責任があることは否めない。
  ただし、ここで高齢者に医療が不要であると言っているのではない。急性肺炎や胆嚢炎など、急性疾患はがっちり治療すればいかに高齢でも、治癒させることができる。もちろん骨折でも手術して治癒させることが可能だ。大腿骨頸部骨折は寝たきりの原因となると言われているが、適切な治療がなされれば、受傷前の生活レベルを維持することができる。93歳の女性に人工骨頭置換手術を施行した経験もあるが、高齢であることは手術を回避する理由にならないばかりか、重症な急性疾患であっても十分に治療可能である。つまり、必要な医療は年齢に関係なく提供されることで、確実な治療効果が得られ、救命できることも多い。ややもすると高齢というだけで医療的介入を軽視する傾向があるが、これは大きな誤認であり、あたかも高齢者へは医療が不要であるかのごとく昨今の風潮には警告を発したい。
  さて、近代医学は老化すなわち加齢とともに生じる生理的変化と病的変化を明確に判断する物差しをなぜもっていないのであろうか。確かに細胞レベルでの形態学的な変化や、生理学的あるいは生化学的に代謝などの変化を客観的に捉えることはできても、臨床的に当てはまらないことが多すぎるのである。高齢者医療の現場では、ヘモグロビン濃度が3.5ml/日でも、400キロカロリー/日しか摂取できなくとも、尿量が350ml/日に満たなくともしっかり生活している老人と出会うのである。癌とともに元気に数年間生活している老人もいる。現在の医学常識では奇跡としか表現ができないが、実は奇跡が日常茶飯時に生じているのである。
  制度上は一定の暦年齢で線を引き高齢者と定義されているが、ある一定以上の年齢となると年齢差が生物学的にはあまり大きな意味をもたない。現に老人医療学を専門的に学んだ研究者ですら、老人医療に普遍性を求めることの困難さを嘆いている。たとえば75歳の肉体的および精神的能力は決して標準化することはできない。なぜならすでに命を落としている者もいれば、嬰轢として生産性のある社会活動を行っている者もいる。肉体的にはなんら疾病がなくとも痴呆化が進行し常時介護が必要な状態の者、片麻痺など障害とともに暮らしている者など、きわめて個別的なのである。そして生理的という指標の多くが、女性と男性という異なる基準をもっているにもかかわらず、性差を意識しながら病態を判断する必要すらなくなってしまっている。元気老人のほとんどが女性であるが、その理由ですら推測の域を出ないのである。
  したがって、高齢者医療を語るとき、年齢というパラメーターがあまり意味をもたないだけでなく、医学的に何をもって高齢者とするか根拠もきわめて曖昧だ。「活力ある高齢化」というフレーズが示すように、社会的弱者としてのスティグマを払拭するのにふさわしい意欲も能力も体力も、つまり肉体的にも精神的にも一般社会人と比べて、何ら劣っていないという高齢者も決して少なくない。
  にもかかわらず、これから創設されようとしている公的介護保険は、どういう根拠か、単に65歳という年齢でこの制度を使い分けようとしている。治療できる疾病は主として医療が担うことに異論はない。しかし、成人病といわれているような、致死的な疾病の原因となる疾患は、治療というより管理が必要だ。当然予防はより大切で、医学的手段で予防するだけでなく、食事など生活習慣を改善させたり、まっとうな生活を維持させることは福祉や保健の仕事であろう。そして、医学的に治癒させることができない障害を残した場合、福祉的支援なくしては生活は継続できない。したがって、医療保険に加えて介護保険が創設されようとしていることは一見理に適っているのであるが、実は老人医療費の高騰に伴い医療保険が破綻したため、その対策として介護保険法案が浮上してきたのである。
  高齢者医療は金がかかる、だから介護保険にすり替えようという短絡的で、安直な意図が65歳という基準にはっきり映し出されているのではないだろうか。
高齢者医療の問題点
  新聞や雑誌などで、「老人における濃厚な医療」という表現をしばしば目にする。ここでいう濃厚とは一体何を言わんとしているのであろうか。不必要な(いらない)医療か、金のかかる医療か、金の儲かる医療か、医師の能力が低いために生じるだめ押しの医療か、医師の責任回避のための過剰な医療か、高度で先進的な質の高い医療か、どのような医療なのであろうか。いずれにせよ、社会は濃い医療を否定的に見ている。社会の高齢化に伴い高齢者医療の対象者は毎年増加する。彼らの罹病率はもちろん高い。単純な積で医療費が予想できるのだから、一定の比率での高騰は当たり前の現象である。したがって、必要な医療を必要な時、必要なだけ提供できる合理的な供給体制を整備することが大切で、濃いか薄いかの問題を議論することは、適切な医療の提供を行政府の都合だけで制限していることとなる。
  しかし、なぜ適切な医療が供給されないのであろうか。医師側の要因として、老人医療を医学として学んでいないことがあげられる。これは医学教育制度の問題だけではない。少なくとも筆者が医学部在学中は高齢化がせいぜい6〜7%であった。80歳、90歳と長寿の老人が稀で、急激に訪れた高齢社会にあって、はじめて老人特有の身体生理や精神特質を学んだ専門医の養成が急務であると認識されるに至ったのである。したがって、現実は多くの開業医が実践に基づき経験的に、もっと言えば自己流で高齢者医療に取り組んでいる。数々の訴えや症状に対しては、まず薬物療法で対応しようとしているようであるが、その原因が脱水であったり、薬物の副作用や過剰効果であることが多く、それが見逃されていると専門家は指摘している。発熱の原因が脱水でも、抗生物質の投与が当たり前のように行われているのである。
  さらに、倫理観での問題も生じている。一体何のための医療か、誰のための医療か、家族のためなのか、後見人のためなのか、法的責任回避のためなのか。医師としてのやりがいや生き甲斐を見失いがちな状況があまりにも多い。患者さんが治療に協力的でないと手術が危険であるとの考え方を楯に取り、痴呆を理由に外科手術の適応がないと判断する場合もある。引き取り手のない老人を救命し、迷惑がられることがあると、痴呆性老人治療の意義は果してあるのかという議論まで出てくる。
  患者さん側の意識にも問題が少なくない。
  大変薬好きな方が多く、数多くの投薬を望む。なかにはやたら注射を希望する者もいる。数か所の診療所の重複受診や社交場のような利用もある。仕事に追われる社会人は、医療機関へかかる時間を捻出することさえ大変な努力であるが、高齢者ら多くは時間とコストの意識が欠如している。さらに入院の理由は、単に寒いから、家族が旅行で留守になるからなどと、全く医学的見地に立っていないことも多い。ところが、このような状況に社会はなんと寛容なことか。
高齢者医療の行方
  今後在宅ケアヘの誘導で高齢者の社会的入院が是正されることを期待するが、医療は供給すれば需要を生む特殊な経済効果がある。したがって、医療費を高騰させずに、医療の質を確保するためには、科学的検証に耐えない、効果が明確でない、わが国独自の治療は保険医療として認めないようにするべきだろう。さらに、保険医の定数制を議論するなど、大鉈をふるわねばならない時が来ていると思う。介護保険へ問題をすり替えても、高齢者に対する医療のあり方はどうあるべきかという問題は解決しない。また、無駄な医療費の抑制方法を同時に考えねば、財布が変わっただけで、解決の時期を先送りするだけである。
  日本社会は、先端医療に携わる専門医を、しっかりした、信頼できる一流の医師とみなし、地域で老人医療に携わる開業医をさげすみ、さらに福祉へ足を踏み入れた医師へは、成り下がったかの評価をくだす傾向がある。筆者は20年近く専門医として、高度医療機関で仕事をしてきたが、思うところあって在宅医療を始めた。そこで施設医療では知ることのできない、生活の場で繰り広げられる、患者の視点での医療の素晴らしさを知った。その反面、在宅医療を継続する上での社会的なさまざまな困難を実感しながらも、その奥行きの深さは施設医療以上のものがあると認識するに至った。
  在宅医療は単に経済効率のみが重視され、その医療の質が軽んじられているかの意見もある。しかし、筆者の経験から、在宅医療は自然科学的な分析で推し量ることのできない、人が人としてあるために必要な、きわめて人道的な医療サービスの一つだと思う。家族的なつながりと家庭的な演出がホスピスに求められているのであるから、住み慣れた自宅で人生の終焉を迎えることがいかに尊いことかおわかりいただけよう。在宅死や在宅での看取りを、尊厳ある生を支えるというターミナルケアという言葉で語られ始めてきた。ところが、ここでも残念なことに、医療経済の観点から福祉のターミナルケアという議論にすり替えられ、「みなし末期医療」が横行する懸念を感じずにはいられない。しかし、必ずや医学としての真理が実残から生まれてくると信じている。医師らにも患者たちにも、日本社会全体が医療・福祉バラダイムシフトを迫られていると感じる所以である。
医療と介護
  高齢者医療においては病院の病床数や入院医療費の観点から施設医療の限界が論じられ、またノーマライゼーションの思想が一般化するのに伴い、脱施設化への市民運動が繰り広げられてきた。在宅療養、在宅ケアヘの関心の高まりのなかで、医療の場を居宅へ誘導しょうという政策的な意図を感じとることができる。
  しかし、「ケア」という概念にはっきりとした定義のないまま、医療職も福祉職も在宅ケアを担う専門職として養成されはじめている。看護、介護、看病はそれぞれ言葉が異なるが、その目的や手段、手技、方法に根本的な差異はなく「ケア」という用語でひとくくりにされている。たとえば褥創予防の体位変換はケアであるが、それを看護婦が行えば看護、介護福祉士であれば介護、家族なら看病となる。
  ただし、看護婦はしっかりした医学的基礎知識をもっているだけでなく、医療現場での教育が十分なされており、たとえ体位変換に伴って血圧が変動したとしても、その変化が生理的であるか否か、的確なナーシングアセスメントを根拠とした、リスクマネジメントを可能とする。万一急激に血圧が低下したら、頭位を下げ、下肢を挙上し、場合によっては血圧計のマンシエツトで駆血し脳血流の保持に務めることも確実にできる。これが看護というサービスの質であるが、介護保険が導入されると、サービスは質ではなく、量が求められそうである。なぜなら、訪問看護婦よりも介護福祉士、ホームヘルパーにケアを依頼するはうが、安く、都合のよい介護力が得られるからである。
  すでにこのような事例がある。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の65歳の男性の在宅ケアをお引き受けしているが、彼は風呂好きで、週二回自宅で入浴介助を受けている。ところが、訪問看護婦が介助すると、訪問看護婦生活動作を利用したリハビリテーションを入浴行為に求めるため、彼は何も言わずに全身をくまなく洗ってくれるホームヘルパーの入浴をより強く望む傾向がでてきた。一方でホームヘルパーらは患者の球麻痺症状が進行すると、誤嚥や呼吸麻痺の危険を伴うことを知り、入浴は医療専門職に任せたいと申し出てきた。
  この例は医療ニーズが安易に介護のなかに包括させられる危険性を如実に示している。さらにケアマネジヤーがケアプランを作成し、そこに利用者の希望が反映される現実を想像するに、週一回の訪問看護より、週二回のホームヘルプが利用者のニーズとなることを危惧している。
おわりに
  介護保険法案制定の基本的理念に疑義はない。しかし、現在の状況下で運用されるとしたら、「保険あってのサービスなし」などというおおらかな表現では言い尽くせるものではない。近い将来「サービスあっても医療なし」という状況になるかもしれないという認識をもってほしい。高齢者医療を医学的に、科学的裏づけをもって、どこからが医療管理であるのか、どこまでが介護管理かを示す時期に来ている。誤解のないように申し上げるが、これは65歳というような時系列での話ではない。また、医療がよくて介護が悪いと言っているのでもない。良質の医療は常に豊かな介護力に支えられている。
  しかし、たとえばケアプランで示された管理下で、食事介助中に誤嚥した場合、この危険をすでに医師が示唆していたとすると、これは医療過誤ではなく、介護過誤である。経管栄養や胃痩造設、あるいは中心静脈栄養で予防できるし、看護婦が介助していれば、救急蘇生が可能かもしれない。
  国民の医療への信頼回復が適切な高齢者医療の提供につながる。医師をはじめ医療者はこの現実を真剣に受け止め、医療のない福祉の貧困さを社会に問わねばならない。
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