食べる楽しみを
援助する

月間総合ケア  9月号
医療法人喜望会  太田秀樹

      はじめに
「大豆蛋白摂取で疼痛を軽減」.ジョンズホプキンス大学(メリーランド州ボルティモア)JillM.Tall博士の演題を,メディカルトリビユーン紙が伝えている・記事のなかで「われわれの世代では、食事で疼痛を管理するという考えかたがひろく受け入れられている」と述べられているが,さまざまな身体的訴えに,健康上の不都合に,おしなべて薬物に頼る現在の医療の姿に,深く反省を促す貴重なコメントであると受け止めている.
筆者が在宅医療を実賎して10年経過し,その間おそらく500名近い方の在宅療養のお手伝いをさせていただいた.現在も200名前後の患者さんに訪問診療を行っているが,その70%を占める高齢者が抱えている健康問題は,@脱水,A低栄養,B薬物の多剤,大量,長期投与である.まっとうな食事がないがしろにされ,ところが薬だけは服
用しているというのが実態である.
栄養の指標が体重の増減であることは,医療的管理上の基本であるが,体重測定さえ満足に行われていないことが多い.訪問看護でパイタルサインを入念にチェックされていても,体重への関心はことのほか薄い.もちろん血液検査で,アルブミン値を測定する意義は大きく,脱水はクレアチニン値と尿素窒素値(BUN)の比率で判断できる.尿量や尿比重などでも,脱水を疑うことは可能であるが,脱水に伴って上昇したBUN値から,腎機能障害と診断されたり,上昇した尿酸値から高尿酸血症と診断され,そのうえ尿酸排泄剤の投与を受けている事例にであうこともまれではない。
高齢者への多剤投与の妥当性をはかる物差しは用意されていないが,最近筆者が経験した例では,何と26種類の薬剤の投与を受けていた.
薬を減らし,しっかりとした食事を摂取させることで,見違えるほど元気になった高齢者はいくらでもいる.おそらく読者のみなさんも,同じような経験をされ,医療のありかたに疑問や不信をいだいていることと察するが,ここでは原点に立ち返って食べることの意義を見直し,同じ高齢者ケアにあたるものとして,その課題について考えてみたい.

      薬か食か
薬物療法に対して食事療法という用語がある.最近の健康ブームにのって,健康維持においての食事の重要性が,さらに見直されている.しかし一方で,怪し気なサプリメントも出回っており,食品添加物に対して過剰な反応を示すマダムが,ビタミンCレモン100個分合有などと称する健康食品のファンだったりする.
自然界に存在し,食品として受け入れられている植物や動物と,化学的に合成されたものと比較し,どちらが人の身体に有益かというきわめて単純な疑問は,おのずと答えが導き出されるはずであるが,たびたび過ちはくり返されている.
「頭のよい子にそだてよう」.これはある粉ミルク会社の宣伝用キャッチコピーである.昭和30年当時,母乳を捨ててまで,人工乳を飲ませたお母さんがいたが,今あえて母乳の優位性を科学的に説明しなくてはならない状況になっている.
食塩の問題も同様である.塩は半世紀前まで,海水から天日を利用しつくられていた.しかし大量消費時代を迎え,工業化もあいまって,化学分解し純粋にナトリウムとクロール(塩素)だけが抽出され,精製塩として食卓に出回っていく.ところが最近になって,味のうえでも,健康上の理由からも,昔ながらのミネラルの豊富な粗塩の価値が見直された.純粋でないほうが高い付加価値をともなって,高級な塩として販売されているの
である.
ナトリウム制限は,高血圧症の治療でうるさくいわれている.しかし,理想的なナトリウム制限食の一つと考えられる経陽栄養剤を長期に利用すると,低ナトリウム血症になることが知られている.理論値との乖離があるのは,ナトリウム単独
で語れないからであろう.また,味覚機能や褥瘡の治癒に亜鉛が大きくかかわっていることが話題となっているが,微量元素を食品から接取することの重要性がやっと理解されはじめている.
無農薬で栽培された野菜が人気を博し,天然ものが養殖より旨いといわれている.食品に含まれる栄養素は,人工的な手が加えられていないもののほうが,はるかに高いという報告もある.
食事が健康維持,増進に大きく貫献していることに,疑問の余地はないはずだし,食品も新鮮でうまいもの,つまり,天然のものが,結局身体に都合がよさそうだという理解も得られはじめている.
ところが,元気がなくなると,すぐ人々は薬を頼るのである.ビタミン入りドリンク剤の販売高が,その人気の証左である.ちょっと意地悪であるが,もしビタミン剤ドリンクに,疲労回復効果があるとなると,疲労の原因はビタミン不足という診断となる.これがいわゆる診断学的治療であるが,ある種類のビタミン欠乏症だとすると,その原因をあきらかにしない限り,ドリンク剤は対症療法にしかなり得ない.しかし服用後ただちに,
その効果を自覚できるとなると,ビタミンの効果であるとは考えにくく,むしろカフェインなどによる中枢神経系の刺激効果と考えたほうがよいような気がする.ビタミン過剰症は気にしないが,欠乏症だけを心配しているのだろうか.

 1950年の雑誌から
プライベートなことで恐縮であるが,祖母(故人)は料理研究家であった.敗戦後,日本人の健康増進活動のなかで栄養バランスのよい食事の重要性を訴え,実賎していた.1950年刊行された『婦人の友』という雑誌で,昭和初期に九州帝国大学医学部付属病院で行われた入院泊療のようすを紹介している.
彼女は分娩後の貧血で,2〜3週間入院するのだが,治療は食事療法のみである.「鶏の肝一羽,新鮮なほうれんそう,小岩井で作られるバター云々」.これらによってみるみる回復し,赤血球が明らかに増加し,健康をとり戻したという.
この話を50年後の現在におきかえてみるが,飽食の時代といわれる現在でも鉄欠乏性貧血の女性は少なくない.彼女たちも,食生活を改善させれば,貧血が改善する可能性は高い.当時と異なり,血清鉄の濃度を測定することは容易いし,鉄剤も簡単に手に入るが,薬物で胃腸障害を生じ,かえって食事摂取量が低下する例もあるし,便の色の変化を副作用と誤解し,こっそり服用を中止する例もある.
この50年で医学は大きく進歩し,とくに1980年代からの20年は臓器移植を可能とし,遺伝子情報が解読できるまでに,目まぐるしい発展を遂げた.しかし,通常の食事以上にエネルギーを摂取し,バランスよく栄養素を体内に取り込める方法が開発されたわけではない.
「医食同源」.おそらくこの言葉は,医学が科学として確立する以前から存在していたと思う.科学的に分析するまでもなく,経験的に暮らしのなかで実証されてきたことなのである.

    本能としての「食」
食を語るとき言いつ尽くされた言葉であるが,食べることは,すなわち生きているということ,生を実感することである.しかし,疾病で嚥下機能が障害されたり,通過障害などで,食べることができなくなり,胃瘻や中心静脈栄養で生活されている方もいらっしゃる.こういったテクニックこそ,あきらかに近年の医学の発展によるが,困ったことに,安易にその技術が応用され,口から食べることを忘れる高齢者が増加している.
誤嚥性の肺炎が危険である,仮性球麻痺により食事介助が長時間に及ぶ,誤嚥が窒息につながるなど,一見合理的に思えるさまざまな理由から,食べることが奪われている.
筆者の運営する介護老人保健施設では,食にまつわるさまざまな問題をもっとも重視し,すべての入所者が座って口から食事をすることを基本目標としている.だから鼻腔カテーテルが挿入され,褥瘡をつくって入所してきた方が,自分で食事を摂取できるまで回復するといった事例は,痴呆があっても,決してまれなことではない.介護に暴力的に抵抗し,着替えすらさせなかった方に,好物の寿司を食べさせたことから,ケアワーカーと
の間に信頼が生まれ,問題行動がなくなった事例もある.
身体拘束ゼロ運動が盛んに行われて,高齢者虐待も社会問題化している.本人の意志の確認もないまま,介助が厄介だ,危険だとの理由で,家族の意向だけを重視して胃瘻を造設し,嚥下機能が低下することは,考えかたによっては,ある種の虐待かもしれない.おおいに疑問をいだいていただきたい.
「糖尿病の食事療法を厳守し長生きするより,寿命が短くてもよいから,うまいものを食べたい」.こんな人生哲学を,医療職だからといって,否定してはいけないような気がしている.生きがいを見失いがちで,将来に希望がない,虚弱な高齢者にこそ今,食べる「食」の楽しみを大切にするような人道的なケアへの配慮が必要ではないかと考
えている.

   ニーズとしての「食」
介護保険制度の導入により,医療職,福祉職が一堂に会してケースカンフアレンスを行えるようになった.そこでしばしば問題となるのは,「食」に関するニーズである.
ニーズ抽出で優先順位の高い事項は,生命とかかわる問題である.したがって通常,医療ニーズといわれる問題が登場するが,筆者はまず食事を最初に考えるよう指導している.
「服薬管理ができない」,「下痢が続いている」,「便秘である」,「褥瘡が感染している」.よく聞くことであるが,服薬管理ができない高齢者がバランスのよい食事を心がけていることなど考えにくく,朝食に食べたものを忘れる人に,1日30種類の食品摂取ができるはずはない.下痢や便秘など便通異常は,何を食べているのか,どんな生活をしているのかなどが重要である.そしで褥瘡の問題は,褥瘡があることに問題意識をもつべきで,
感染に気持ちを奪われすぎてはいけない.栄養状態がわるく,寝かせきりであれば,その問題を解決しない限り,感染に抗生物質を投与しても,焼
け石に水である.
つまり,生命にかかわるほとんどのニーズは「食」に関することにつながる.
そして,「食事ができない」という表現は,咀嚼して,嚥下ができないのか,手が不自由で,食事介助が必要なのか,調理ができないのか,さまざまな分析を要する.足が不自由で,買い物に出かけられないのなら,食材の宅配で解決するかもしれない.調理ができないなら,配食サービスの導入だ.手が不自由なら自助具や介助で,咀嚼がで
きないなら,義歯の検討など口腔ケアの専門家の評価,改善の可能性がなければ,調理の工夫.嚥下できないなら,嚥下訓練の可能性の検討である.そして,嚥下機能獲得困難であれば,はじめて胃瘻造設の適応を考えるということになる.
ここに示しているように,医療,介護,福祉と多面的な分析が必要で,同じ問題でも解決方法が多岐にわたる.「食」への援助計画に必要となるのは,幅の広い視野である.

   文化としての「食」
「同じカマの飯を食ったのだから」という表現は,家族同様の親しさと絆を表している.家族は同じものを食し,食卓を囲んで団らんがある.冠婚葬祭では,いろいろな形式で食事が振る舞われ,永田町の厨房が赤坂にあるかのように,数々の商談が宴席で成立する.グルメブームで,料理番組や食べ歩き番組が高視聴率を獲得し,たとえばラーメンなどのジャンクフードの社会的地位がやたら高くなってきた.そして一方で,美容と健康に
よいといわれる食事のレシピに話題が集中し,薬膳懐石で一躍一流店の仲間入りした料亭もある.
もっとも,日本食といわれる穀物を中心とした低脂肪高蛋白の食事が,健康維持に大変大きな力を発揮し,長寿社会に貢献したことは,科学的な分析の結果わかったことであるが,科学的な視点で,栄養学,治療学としての食のありかたに偏重しすぎると,本質を失ってしまう危険を捨てきれない.好みの味つけをすれば,好みの食材ならば、旨いものなら全量摂取できるのに,治療食と称して,口に合わないものを饗し,食事量が減少する.
この状態で塩分制限をすればやがて電解質バランスが崩れ,低脂肪食とすれば血中脂質が低下する.楽しく食事をすると消化吸収が促進し,一方で精神的な落ち込みでは食欲が減退する.この事実を考えると,社会的,心理的な影響を無視して,身
体機能を語ることができないことに気づく.
伴侶を失った高齢者が,悲しみのなかで食を細くし,生命にかかわる疾病がないにもかかわらず,やがて後を追うように旅立っていく姿をみると,一元的には分析し得ない「食」の意義を改めて考えていだだけるのではないだろうか.

      おわりに
なぜ寝たきり老人を外国でみることが少ないのか,この答えは簡単である.自らの意志で食事ができなくなった高齢者に対して,わが国のような手厚い医療やケアが提供されないからである.医療は本人のためにあって,医療を継続したいという本人の意志が確認できなければ,医療が打ち切られるというきわめて合理的な思想に基づくが,医療の中止に社会全体の合意が得られている.
ところがわが国では,回復の望みが薄くとも,しっかりとした医療が提供され続け,寝たきり老人といわれる高齢者が数多く存在している.そのため介護保険制度は,1日3回の食事介助を介護の手間として最も重視し,食事が自立しているのか,介助が必要かで,その他の状態像が全く同じでも,一次判定結果で42分の介護認定基準時間に差を生じせしめている.介護度でいえば,3段階も異なるのである.
これは,まぎれもなく「食」を重視した結果である.ここでも先進諸外国と「食」に関する意義のとらえかたが異なり,食のケアだけでなく,ケアの本質にかかわる思想を育んだ文化的背景に,歴然とした差を感じないわけにはいかない.「食べるために生きるのか,生きるために食べるのか」.それは哲学的な永遠のテーマでもあるが,一方で最も日常的な,生活そのものである.肩の力を抜いて眺めてみると,いろいろなことが見えてくるような気がする.


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