下野新聞「しもつけ随想」2003.1.12掲載
往きの医療、還りの医療
 医学は病を克服し、健康を追求するための自然科学である。だから治せない病気や死は医学の敗北と考えられるが、はたしてそうであろうか。
  私は以前大学病院の勤務医であったが、病院の中にいるときには、気付かないことが往診に力を入れるようになってはじめて見えてきた。それは医療に対して医者が求めるものと患者が求めるものが、あまりにも違っていたことである。そもそも医療とは医学という学問を社会に役立つように、暮らしのなかに持ち込んだものである。その医療は、さまざまな生活の場面で利用されることになるのだが、医療のかかわりに対して、医者と患者とでは全く異なった物差しを持って、その意味をはかっている。
  私の珍療所では、数名の医師が、二十四時間、三百六十五日緊急往診に対応できるような体制で、在宅療養している方々を支えている。新年会シーズンのある夜、Uさん宅から電話がかかった。彼は呼吸困難が強く、歩くことができないほど重症で、自宅で酸素療法を受けながら療養していた。最近腎臓の機能が悪化し、命が危うい状態であった。酸素の治療を受け始めて数年、風邪をひくと肺炎になって危険だからという医師の忠告を守り、予防薬と信じた風邪薬を飲み続けていたのである。腎機能障害の原因はおそらく風邪薬だと思われるが、通院していたころは、医師と話しをすると叱られそうで、何一つ質問ができなかったと言っていた。
  私たちが往診するようになったのは、寝たきりになってからで、ベッドのそばで彼と話しをする以外、取り立てて医療的な処置ができる状況でなかった。だから電話は病状が急変した知らせかと慌てた。しかしその時私は宴席にいて、当番の医師と連絡を取りたいむねを伝えたが、宴会が終わったら酔っていても構わないから会いたい、というものであった。
  酔っぱらいの医者が患者をみることは、非常織極まりない行為であろう。でも、私はタクシーで帰宅途中に妨問した。彼の話は遺書とも感じとれるものであったが、感謝の気持ちを伝え、最期を頼むというものであった。「先生の顔みるだけで、元気になるんです」と家族が笑った。
  医療的行為で、もはやその効果が期待できないとわかった時、医者は、それ以上患者とかかわることを避けるかもしれない。それは、かかわる意義を見出せずに、遠慮する気持ちが先立っての結果である。しかし、患者はどのような状況においても、生きることを支えてくれる医者が傍らにいることを望んでくれているのである。
  このように医者と患者の間には、異質の価値観がはびこっている。しかし、その価値観を共有できるしなやかな感性を医者が持たない限り、市民の医療不信が払拭(ふっしょく)されることがないのではなかろうか。病に立ち向かい、病に打ち勝つ医療があると同時に、ただ寄り添うような医療があってもよいと思う。治らない病や障害や死と堂々と向かいあう医療があってもいい。往きの医療と還りの医療が共にしっかりしないと、患者に幸せを運ぶことができないような気がしている。                  (医師)
 

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